コンビニ・ハシゴ ~トミーさんのアソート間違ってるよ ― 2005年12月15日 15:05
先月末の火曜日にコンビニに並んだトミーの新作「おしゃべりパーティー」。
ミッキーマウス、マリー、スティッチの全3種類。各300円。
発売日にお店で見かけたのに棚に並ぶのはミッキーとマリーばかりで、スティッチがただのひとつもない。唯一買おうとしたキャラクターがない、その気持ち悪さが捜索をスタートさせるきっかけになってしまいました。
会社から自転車で約25分の帰り道をコンビニをチェックして歩く自分。自分の家に着くまでの7店舗が全て同じ状態。それどころかミッキーやマリーは大量に棚にあるのにスティッチだけが買い占められたのか、それとも問題で回収があったのではないかと思わされるほどない。一番棚に在庫していた店舗では20個近くあって、全てが前述の2種のみと言う状態。こうなってくると意地のようになってきて家を通り過ぎても探し続けている自分。
結局その晩18店舗まわって発見できず帰りました。時間にして数時間。冷え切った体で何をやっているのやら。翌日以降、出先ではついついチェックするタイムロスを続ける日々でした。
一週間後……。
一番最初に商品を見かけた店舗でついに発見。人気があったからなのか、追加入荷されていました。そして当日はおもちゃイベント「ワールドキャラクターコンベンション」の日。おもちゃをしこたま買うような日なのに出掛けに購入。嗚呼……。
イベントには同じ趣味の友人がいるのでこの商品の話をしたら、お店に卸されるパッケージは10個単位、そしてそのうち4個ずつがミッキーとマリーちゃんでスティッチは2個のみと聞かされる。メーカーの押しとキャラクター人気の配分を考慮した上のバランスのようですが……明らかに間違ってますよ。
アソートのバランスが不均等なのは商業としてしょうがないのかもしれませんが、市場調査はきちんとしましょうよ。そうでないとバカなのに風邪を引くまで探す大バカ(自分)が発生してしまいます。(脱力)
怪物くんの魅力 ― 2005年12月15日 20:43
自分がもっとも憧れを持つ児童漫画の理想形のひとつが『怪物くん』だ。
子供の頃はこんな友達がいたらどんなに楽しいだろうと夢想し、今はこれだけパワーあふれる漫画が描けたらどれだけいいだろうと夢想し続けている。
改めて職業的な目で見ると『怪物くん』は漫画の教科書に向かない部分を持っているのにこれだけ魅了的で王道の漫画はない言う矛盾のような思いも抱く。
漫画の基本“起承転結”を骨子とした物語の作り方、ペース配分、それらに注目して読み返すと、理想的な漫画とは言いがたい姿が多く目に付く。ギリギリまで事件を展開させ終了ページ直前になると主人公が信じがたい超能力を発揮して、あれよあれよと言う間に収拾させてしまう、そんなパターンが『怪物くん』には多く目に付く。体の小さな少年怪物が体の大きな怪物よりも強いという意外性はまさに“愉快・痛快”、しかしその無敵ぶりにはあまりに万能すぎるのではないかと思えてしまう向きもある。そんな優等生とは言えないパワーバランスに気づくが漫画の魅力は決して損なわれていない。計算だけで作るにはかなり危ういバランス感覚。通常の漫画ならば欠点となりうる部分が『怪物くん』では類を見ないパワーであり、意外性であり、魅力となっていることに気づかされるのだ。
安孫子先生は『怪物くん』の前に連載していた『フータくん』の連載中に絵コンテを描く漫画製作法を捨てた。絵コンテとは本番の漫画を描く前にノートなどに描く漫画の設計図で、通常はこの作業の段階でストーリーが決定される。ところがオチが浮かばないまま描いた『フータくん』の中で意外な突破口を描けた経験から以降、漫画はジャズの即興演奏のように原稿用に始めから描かれているそうだ。
『怪物くん』にいたっては連載予告で主人公の顔を決めることが出来ず、後姿で登場させ、連載第一回のカラー扉に至ってまで後姿のまま。まさにギリギリの瞬発力によって作品がスタートしている。
普通の作家にこの方法がオススメできるはずもない。基本を長年かけて習得し、即興でも読者の目を楽しませ続ける才能あってこその話だ。インパクトやパワーは即興ならではの魅力にあふれている。
しかし魅力はそこだけに留まっていない。一発芸として使い捨てされることなくキャラクターたちは再登場を重ねより味わい深くなっている。再登場で奏でられるフレーズは一歩進めた変奏曲となり、それらが絡まり深まり、進んで行くことでジャズどころか壮大なオーケストレーションを奏でているような間合いを深めていく。それらのモチーフはキャラクターだけではない。“怪物大王”怪物くんの故郷“怪物ランド”は毎年、「少年画報」の正月号で必ず反復されるモチーフとして年々掘り下げられ、一定のリズムによって世界観が深まっていった。怪物ランドの全貌を見下ろす漫景が描かれるのは少年画報誌上、最後のお正月号だった。カラーアニメ世代にとって『怪物くん』と言えばオープニングの画面に登場するほど“最初からあるもの”だが、あの奥行きを感じさせる世界観は長期連載で構築されたものなのだ。
このような反復が行われる安孫子漫画って珍しい気がする。もちろん作者として仕掛けた計算もあるだろうけれど、それだけではなく作者を取り巻く環境がそれに作用したのではないかと思う部分もある。読者からの投票で行われたゲスト怪物の人気ランキングは生の声として作者に届き、ゲストの再登場を促した。アニメ化され、以前描いた作品を目にする機会や必要に迫られ、よりバックグラウンドを求められるようになった。それらの作用が作品にもフィードバックされながら新境地を開拓し続けた結果が魅力的なリフレインとなっているように見える。
『怪物くん』を普及の名作にしているのは最終回の存在も大きい。
そして準備にかけられた期間もかなり長いことが分かってる。アニメが放送中だったために先に用意されたシナリオに何度もリテイクを出しながら“自分の作品”としてこだわり練られた最終回。それら外的刺激を受けながらイメージを模索し続けたおかげで完成した最終回は濃密な藤子漫画の決定版とも言える作品になっている。「少年画報」ではラスト3ページがカラーと言う雑誌の体裁としても異例の舞台を用意してもらい、最大限にその効果を生かした。
少年の日の終わり描いた最終回は、万人の胸に残る美しいラストシーンだ。
第一話を執筆するまで主人公の顔も決めていなかった漫画が名作へと成長するとは作者自身も想像していたとは思えない。この漫画の誕生や成長は作者の力があったのはもちろんだが、作者にとってのタイミング、発表誌、そしてその時代を共にした奇跡に思えてならない。
『怪物くん』は読者の要望に応えながら作者自身も楽しみ続けたからこそ理想郷のような漫画になったのではないだろうか。
児童漫画のもっとも幸せな形が『怪物くん』にはあるのだ。
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