作り手と言う”神様”2006年01月19日 21:05

<3時間完全版>マスコミ用上映告知ハガキ(91年9月)
ものづくりの作り手は神様です。ストーリーの作り手ならば世界を作り、キャラクターを生かすも殺すも作者次第。やさしい神にも残酷な神にもなれる。
もちろん映画監督もそういう仕事のひとつ。

当初自分は『ニュー・シネマ・パラダイス』を神様の物語として読み解くことをひどく嫌った。この映画に限らず日本人の宗教観はあらためて神様を語ることにすごく抵抗を感じる部分がある。
でも改めて考えてみると『ニュー・シネマ・パラダイス』のように教会や教会が経営する映画館を舞台にする映画で”神”のモチーフを捨てるなんてありえない話です。九九の答えを教えるクリスマスツリーの絵自体が宗教性を指してることに気づくと神様話なんて嫌いだと言いながらどんどん惹きこまれる、そしてどう考えてもそうとしか読めなくなってくるのだから不思議。免疫のないジャンルに侵されると進行も早い。もはやどっぷりとヤラれた感じです。
この次の映画『みんな元気』でこそキリスト教会の推薦をえる作品を撮るG・トルナトーレ監督ですが、この映画は決してキリスト教の神話とも思えません。何しろ映画に登場するアデルフィオ神父は他のキャラクターに比べても人間的な描かれ方、彼いわくアルフレードの考えることは「異端の考えは捨てろ」と言われるものです。そして「永遠の業火に焼かれるぞ」と言うほどなのです。

戦争から帰ってきたトトを迎え入れるアルフレードは「ここは熱い、海へ行こう」と言うシーンがありますが、まるでその台詞はすでに業火の熱さにあえいでいるようにも見えてくるから深いものがあります。

アルフレードが自分の恋愛を壊していることを知ったトトはエレナに言います。「君にも魔法をかけたのか!」
魔法の言葉にファンタジックなものを感じるかもしれませんが、”御業”と意訳してしまうほうが筋が通りやすくなるかもしれません。

トトが映画監督と言う”神様”に成れることを早くから見通したアルフレード。 彼自身は「自分がみんなを笑わせてる気がする」と自らの仕事の範囲を自覚していた。決して本当の神ではないアルフレード。人間である彼が神のようなエゴで編集したのはキスシーンのジャンクフィルムだけではない。かけがえのないトトの人生そのものが彼の作品だったのかもしれない。