顔が見えないブログ2006年03月15日 05:36

NO FACE
以前から自覚していたのだけど、今日、同業者から改めて聞かれて思った。 自分は意識的にネットで避けているネタがある。仕事がさっぱり出てこない。
コレクションで記事が埋め尽くされている理由の一つは”TVチャンピオン”だったり”ちまちまコレクター”としての顔のアンサーであり、自分自身のコレクション備忘録でもある。埋め草記事として楽だという面もある。それにしてもコレクションに終始しすぎているのは自覚がある。

以前は藤子まんがに関するネタも意識的に控えめに、避けようとしていた。誤解を恐れずに言えば藤子ファンに注目されるのが嫌だから。それには色々な意味が含まれる。群れて思考停止になるのは嫌だし、仕事として触れてしまっている分、個人的に語るときの距離感がつかみにくい。
はたまた藤子がらみの仕事に対してマニアは厳しい目で評価し、全ての人が歓迎しているとは限らないと分かって居るからです。(もっとも大半はノンクレジットばかりで自意識過剰はなはだしい感覚ですが。)仕事とプライベートの使い分けは自分が気をつけても周りが理解してくれない可能性もある。

そして自分の意見や説にそんなに同調を求めていない自分が居る。フィクションはそれぞれの心に別の像を結ぶから面白い。この感覚は『私の嫌いな10の言葉』(中島義道・著)による処の”感受性のエゴイスト”と言う表現にすごく共感している感覚。 「貴方の気持ちが分かる」と言う傲慢な意見はありがた迷惑と思うことが多くなった。『あなたが他の人びとに自分にこうして欲しいと思うのと同じことを、他の人びとにするな。なぜなら、彼らの趣味はあなたの趣味と同じではないのかもしれないのだから』(バーナード・ショー)に大いに賛成。
……年々自分が偏屈爺になるのを感じている。

自分のバックグラウンドを知らない人が絵を見て容易に藤子マンガファンと言い当てることに限界と敗北を感じています。
確かに根っこに強くあるのは否定しませんがそれが全てと思われるのはある種、侮辱に近い感覚を覚えます。
自分は意識的にネットで仕事を宣伝することを辞めた。実際に出された媒体で評価されれば結果の全てでわざわざ宣伝をしてまで見てもらいたくないのです。
どんな絵を描くのか、どんな仕事をしているのか、さっぱりブログに書かれない理由の一つはそれです。

ある種、藤子コンプレックスみたいな話になってきましたがそれだけではありません。

多様に仕事を広げて何でも引き受ける姿勢を続け幸いに、あちこちから”器用貧乏”の称号を頂いてますが多くの顔、画風を使い分けるのは創作の小さな楽しみになっています。はっきり言って自分にスタイルは確立してません。貧乏は嫌ですが器用さは自分にとって楽しい武器で玩具です。 そんな自分の幅を全貌として伝えるとつまらないなぁ、と思ってる自分が居ます。
加えて忙しいとか、こんなに仕事してますとか、苦労してますとか、そういう自己アピールがわずらわしいのです。裏で面白い仕事をたくさんこなしていたい。
仕事のアピールは自分にとっては言い訳や押し売りに近い感覚で、控えめにしたい。

だから改めて仕事をネットで確認しようとしても出てこないわけです。
でも改めて知りたいと直に言われ少しだけ反省。
”ちょっとは”話題にしようかな、そう思い直した偏屈爺さんでした。

切なさと美しさを感じる品 ~E.T.指ぬき(シンブル)2006年03月15日 08:11

"E.T." thimble  by FORT
ちょっと前の話ですが親が海外旅行で指ぬきを買ってきました。日本のものと違うから使いやすいと見せくれました。確かにバンド型の指ぬきが主流の日本のものに比べ海外のものはキャップのように指にはめる形で使い心地が良さそうです。

それを見て自分も一つだけ指ぬきを持っていることを思い出しました。それが90年代後半にフロリダのユニバーサルスタジオで購入した画像掲載の『E.T.』の指ぬき。指ぬきは西洋でかなりコレクターの居るジャンル。このような実用性が低いディスプレイ目的のコレクション用も多くリリースされています。

E.T.マニアである自分は旅行中ごっそりグッズを買いましたが、一つ一つにツボがあります。中でもこの商品は興味深い物でした。 あの指を出したポスターデザインに引っかかっているのかと思われそうですが自分はそっちよりも『ピーターパン』との関連に琴線がピーン。(製作側がそこまで考えているかは不明ですが……。)

『E.T.』は『ピーターパン』に多大な敬意を払っている作品です。童心を忘れずに空を飛べる物語という共通点も充分にそれを感じさせます。劇中にある具体例は末娘ガーティーの枕元でお母さんが読んであげている本、『ピーターパン』がそのものです。「妖精を信じる人は手を叩いて!」と言われ妖精を救うためにガーティーが手を叩くシーンはフィクションと読者の理想系を感じる素敵なシーンです。

『E.T.』の映画の中では登場しませんが『ピーターパン』に登場する”指ぬき”と言えばウェンディがピーターパンに贈るもの。しかもピーターパンはそれが”キス”だと信じています。

E.T.は大人には見えないと信じるガーティーやエリオットたちにとっても彼は妖精のようなもの。そしてE.T.は淡い恋心をエリオットのお母さんに抱いているのですがそれは届くことなく終わります。(カットされたシーンではチョコレートをエリオットのママの枕元に贈る直接的なシーンがあります。) ウェンディをお母さんと慕うピーターパンたちと同様、母あってこその子供の世界。その世界をなぞるように『E.T.』では大人の中で唯一子供と同等の扱いで描かれるのがエリオットのママ、その人です。『E.T.』は『トムとジェリー』で人間を描くときに腰から下しか描かないように、子供の世界が成立している前半は大人の顔が写らないフレーミングをしています。そのルールを唯一破っているキャラクターがエリオットのママで、彼女だけは子供の世界で存在を許されている人だと言うことが伝わってきます。

そんな彼女に想いを寄せるE.T.の届かない想いを”kiss”として具現化したような品の「指ぬき」は切なくて『E.T.』のコレクションの中でも深さを感じる逸品です。