『のび太の恐竜2006』~全身で感情を表現する子供たち2006年03月29日 16:17

『のび太の恐竜』ピンバッジ<ムック、単行本付属品>
封切られたらさぞかし評判になるだろうと思っていた映画『のび太の恐竜2006』。しかし耳にする評判は予想と逆でドラえもんの固定ファンであればあるほど酷評だし、ドラえもんにこだわりなく映像ファンという傾向の人には喜ばれている印象。

一部の人に「あんなにグニャグニャ動きすぎるのはドラえもんじゃない」と言われているのを聞き愕然とした。その人の意図するところを正確に汲み取れて居ないのかもしれないが、動かないほうが良いような口ぶりに落胆をするばかりです。

芝山監督が行った意識的に「コマ四段割を引き写したような」無味無臭に近い演出は職人芸として評価することは出来ますが、クリエイターとして一番輝いていたのはそこから脱線するリール5巻目以降、もしくは本編から離れたお遊びの部分(予告編など)でした。
マンガを正確になぞることを美徳とするファンにとって、それらの作品は傑作足りえるのかもしれませんが、自分にとってはそれだけでは楽しくないですし、アニメーション映画として”映画化”すると言う作業としては不十分だと常々感じていました。実質半年で製作される体制を考えれば限界があったなどのハンディは充分承知です。

今回の映画が何よりも楽しみだったのは準備期間を差し引いても余裕ある”劇場アニメーション”が拝めると思うとそれだけでワクワクさせられました。そして結果的にスケジュールに多少の無理を感じるものだったとしても、よくぞここまで善戦したと思えるフィルムが出来上がったと思います。
やや、作り手に近い甘い意見かも知れません。しかし、自分は今回の映画の作り手ではありませんし、単なる一観客として例年のドラ映画以上の興奮と満足感を映画に感じました。

藤子漫画は極限までにシンプル化された画線で描かれ、キャラクターの造形もストーリーの余白も受けて側の想像力、読解力にゆだねられたものだと言えます。その余白に感じるものは人それぞれな部分があると言え、何も手を加えずアニメートすれば単純なフォルムの無機質が動き、口パクだけで話す図形アニメになってしまう危惧もあります。無論、そういうアニメとしての手法はあると思いますが『ドラえもん』は決してそういう素材だとは思いません。
等身大として息遣いある存在だからこそ子供達に絶大な人気を保ってきたキャラクターです。
ややオーバーな動きと言うならば、欠点としての指摘が出来そうですが、その躍動は全身で感情を表現する子供そのもので魅力的でした。

さらに面白いと思ったのが黒マスクのボディランゲージとの対比でした。
白人文化を感じさせるオーバーなしぐさは、改めて彼らが異文化の人間であることを感じさせてくれる効果的なアクション。愉快で、なおかつ不気味さを感じさせる面もあり良い演出だと感じました。

アニメーションは漫画と違って余白を読む媒体ではなく観客とリアルタイムで流れていくものです。原作つきのアニメーションの課題として、その余白に何を込めるか、読み取っていくかが”アニメ化”だと思います。
その意味、動かすことの楽しみ、受け手にとっては”動くことの楽しみ”に溢れた本作、それを楽しめないないなんて残念です。
漫画の余白は作者の意図したものもあれば、各自が思い浮かべる像が違うのも当たり前の部分もあります。それら各自の像との違いはあって当たり前。

原作を読んで自分が思い描く像と映画『のび太の恐竜2006』がピッタリだなんて自分も思っていません。でも、想像を超える側面を見せてくれたからこそ今年は楽しくてしょうがありません。

まだ、映画館へ足を運びそうです。
<つづく>

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