記憶でディフォルメするのが正しい映画鑑賞2007年02月05日 08:34

UNE EPOQUE FORMIDABLE...(1991)/邦題「パリの天使たち」仏映画・チラシ
話は3年前。(ネタ貯蓄の底に…)同僚に映画で印象に残っているシーンを感情たっぷりに説明。身振り手振りをいつも以上に大きくして説明し、しまいには思い出すワンシーンに合わせて鼓動が高鳴りを覚えるような有様。でも説明しながら記憶のままでは辻褄が合わない点があるなぁ、と思った。

作品はフランス映画『パリの天使たち(1991)』。以前自分の素顔を晒したエントリーで並んで写ってる人、ジェラール・ジュニョが監督・主演作品。あるサラリーマンが職を失いホームレスになる過程を描くもので、主人公の力になってくれる友人としてリシャール・ボーランジェが助演していた。おおまかなストーリーの流れがおぼろげになってしまっていたが、何よりもそのラストが印象的で、その興奮を人に伝えたかったのだ。以下、ネタバレはなはだしいのですがご容赦を。

主人公は恋する女性の為にエリートサラリーマンの振りをし、いかにもデキる身なりをしてその女性に近づくのだけど、あと少しと言う瞬間、スーツケースがバカッと開いてしまい、芝居がばれてしまう。中からリンゴが一つだけ階段を転げ落ちていく画がいかにも映画的で素敵なのだけど、彼女の反応が更にイイ。全てが芝居だと分かっているのに怒ることなく女性は全てを許すように微笑むのだ。

その名シーンの説明をしながら記憶の手触りがちょっとおかしい事に気がついた。女性との恋の成就が主軸ならこの展開はおかしいぞ、と。気になった自分は家に帰って検索をし記憶の穴を埋めた。女性は恋人ではなく旦那に愛想をつかせて出て行った奥さんだったのだ。

好きな映画として胸に刻んできたのに大きな記憶違いをしていた事が恥ずかしくなって、後日笑い話としてこの話をした。記憶の中の名画は決して本物通りではないと。

でも映画好きの友人は真顔で言い返した。
「何を言っているんだ、それが当たり前で正しい映画じゃないか。」
今でこそビデオやDVDで好きな映画を繰り返し観るのが当たり前の世の中になったけれど、それ以前は名画座で再上映されることがない限り再鑑賞は出来ない。記憶だけでリピートされ、印象的なシーンだけが誇張されて記憶の中に刻まれていく。それこそが映画として正しいというのだ。
記憶でディフォルメしてこそ映画。人によって残るものが違うのが創作物。当たり前の話だ。

言われて思い出した。一般家庭にビデオが普及する以前の映像に対する愛着や視聴者としての熱意を。
確かに繰り返して見ることや暗記をすることは一種作品に対する愛のようでもある。でも、それだけでない鑑賞のスタイルをビデオの普及と共に自分は忘れてきてしまったようだ。忘れることや勘違いは恥ずかしいことではない、それこそが価値のあることだってある。そう気がついて嬉しかった。
そして作品を再鑑賞するとき、忘れていることがあるほうが何倍も嬉しいことがある。再会の愉しみがたくさんあるのは嬉しい。

決して、年齢で忘れっぽくなったのを言い訳するエントリーでは無いと追記しておこう。