伊集院光と『子ぎつねヘレン』 ~泣きのエンタメ2006年04月04日 02:08

『子ぎつねヘレン』B5カレンダー(劇場配布チラシ)
『伊集院光の深夜の馬鹿力』で、”泣ける映画といい映画は違う”と言うことが力説されていて自分としては激しく同意でした。
先週は伊集院さんがまだ見ぬ『子ぎつねヘレン』を勝手に予想して話す趣向、今週は見てからの感想を話していました。

予想の数々が可笑しかった。
「きっと都会の子が北海道に転校してくるんだぜ」
「エンドクレジットの最後に”動物を傷つけていません”とか”野生のきつねに触るのはエキノコックスなどの寄生虫の心配がり危険です”と出るだろう」 「ヘレンと言う名前になるのはすすきのの風俗嬢にヘレンさんという人がいて…」
妄想が進むにつれておかしささも倍増なのですが、かなりの部分でスルドイ。自分は予告編で何度と無くこの映画を観ていたのでもう少し情報量のあるところで聞いていたので脱線があるほど笑っていました。
そして話は「泣ける映画」の話へ。自分も何度も言うようですが”泣ける映画”と言う表現が嫌いなので痛快な笑いにひたりました。
伊集院さんが知り合いから泣ける映画として薦められた『いぬのえいが』を観た感想が「あぁ、泣いたさ。だって犬死ぬじゃんかよ、あんなの犬飼っていたら泣くに決まってるじゃん。でも終わったら何も残んないし。」と素晴らしく伝わる表現。

かわいそうと言う単純なスイッチだけでテーマ性が泣ければそれは”泣けるだけ”の物語。
”泣ける”と言ってる人々は泣くことをこらえた我慢大会でもやっているつもりなのでしょうか。それとも最近の学説のように涙を流すことによって体に良い効能のある泣きのエンターテイメントとして”泣ける”と言ってるでしょうか。
涙の意味を自分に問わないなんて”泣ける映画”と言う烙印を作品に押して満足している人々って気持ち悪い。

さて、『子ぎつねヘレン』はたいそう泣けそうな映画です。しかし自分は映画はとりあえず置いておいて原作本に手を出そうと思っています。
さんざな事を言って何も見ないのはやはりマナー的によろしくない。それならばフィクションよりもノン・フィクションの原作に触れる方が自分にとっては実りがありそうと思っています。

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