『ウォーリー』公式ブログ、今知りました(^^;2008年12月09日 14:27

すいません、たった今存在を知りました。
まだまだ始まったばかりのせいか、全エントリーを読むのに10分もかかりませんでした。(^^;

ライトな読み味ですが、公式情報の速報性を考えるとファンは要チェック。どんな情報が発信されるのか、楽しみな存在です。ワクワクドキドキ見守りたいと思います。

映画『ウォーリー/WALL-E』感想&ネタのメモ(ネタバレ編)2008年12月09日 21:29

WALL-E  ウォーリー/試写状(8月期)
米公開から約半年。世界でもほぼ最後になる公開地、日本でディズニー・ピクサーの最新作『ウォーリー/WALL-E』がついに公開されました。

今回は内容についてつらつらとメモっていこうと思います。
散文メモにつき、まとまりない内容、失礼!

※※ネタバレです※※

ピクサーとしては初の本格SF的舞台、ディズニーを含めたとしても珍しい未来を舞台にした作品。『ルイスと未来泥棒(ディズニー)』で先を越された感もあり、実際『ウォーリー』では用意したイメージをやめている箇所があります。巨大宇宙船アクシオムの中に広がる未来都市の中にはスペースマウンテンの準備中イラストを模した建物が用意されていました。(the Art of WALL-E(原書)で確認可能。)
the Art of WALL-E

このイマジネーション、知ってのとおり”トゥモローランド”を”トゥディランド”として登場させる『ルイス』に垣間見ることができます。確かに後発ではダブリとして見られるリスクが高く、捨てて正解なギャグでしょう。 しかし、発想方法として共通点が見えるのは興味深いです。

今回の『ウォーリー』で描く未来は、決して楽観的ではなく、現在私たちが抱えている問題を反映させた“なりうる未来”としてダークな面を見せています。それでも希望を捨てずに未来に夢を見ていくことが出来るように軌道調節がなされているといえるでしょう。

2001年は夢の未来だと信じていた作り手や私たち20世紀後半人。実際に21世紀に突入し、地球規模でも未来を楽観出来なくなった今。それでも“未来と言う名の夢”を見失わないように再生を信じる。今を繁栄させた判断、裁量を感じさせます。ファミリーピクチャー、映画としての立ち居地を充分に理解したハッピーエンドを模索した結果です。

いやいや、監督たちは環境問題が主軸ではないと明言していますが、主人公たちが暮らすバックグラウンドとして、リアリティを失わず夢を抱けるバランス感覚は重要です。

ディズニーランド的というより、ウォルトが夢見た未来を受け継ぎ、再生させることを目指す現世代のスタッフ(ピクサーだけでなく、ディズニー側も含む)の方向性が見えるようです。

捨てられたイマジネーションの中には重力の弱いところで骨が解け、ゼリーのような人間になるという学説を反映させたゼリー人間もありました。
NASAのHP関係の深いピクサーならではの学術的な部分を漫画的にアレンジしたビジュアルでしたが、いささかディフォルメがキツすぎたようです。結果的には地球に帰還しても生きていける完成形となりました。

物語の構成は地球編(=ウォーリー編)→宇宙アクシオム編(イヴ編)→帰還編(2人の関係の解決編、収束編)と3部構成にし、主人公が対をなして活躍を見せるのも見事。物語作りのお手本のような構成。

ウォーリーの生活を描く地球編。淡々と日常を描くシークエンスが全体の1/3も続くのに退屈することなく惹きつけられます。ひとえにウォーリーの人間的で心の豊かさを持つ生活とユーモアたっぷりの描写でしょう。おまけに地球編はセリフがほぼ皆無。背景の文字やモニターに流れる音声として設定の語りはあるものの、ウォーリーの心情は全てが動きによって表現される世界。

そのサイレントムービーのような表現が見事で、画を見て考えるという映画の根源的な楽しさを堪能できる“古くて新しい”完成形。
本来無生物であるロボットをこれだけ人間くさく描けるのは、会社のルーツ的作品「ルクソーJr.」の発展とも取れます。そういえばネーミングもルーカス時代の1作目「アンドレとウォーリーB.の冒険」への目配せを感じます。It's アニミズム&原点回帰!

CM類では、「700年間ひとりぼっち」が強調され、孤独で哀愁をさそっているウォーリー。実際、平凡な毎日が700年もの長きにおいて繰り返されてきたことを感じさせる部分ではゾッとするのですが、彼にとってはそれほど悲壮感漂うものではないというのも絶妙。

仕事があり、趣味があり、ペットが居る生活は充実していて、幸せにも見える充実振り。実際、「手をつなぎたい」という夢においても映画の真似をしたいという無邪気な感覚は愛嬌があって、切実なものになるのはイヴが現れてから。それもこれも、ウォーリーが孤独の意味を自覚していないからでしょう。イヴという最愛の存在が現れるまでは、孤独の意味が真に理解されていない。だからこそ、イヴを追って宇宙へ出るというバネになって生きてくるのですが。

ウォーリーの存在が、永遠の反復を繰り返すライン上の人たち……アクシオムの人間やロボットたち、そしてイヴも……を、ラインに束縛されない自由な世界へはじき出す展開は感心させられます。

オートは舵をモチーフにしながらも天井から逆さに降りるスタイルで蜘蛛を思わせるのがニクイ。アクシオムに張り巡らされたラインはオート・ウェブ(蜘蛛の巣)なわけです。その巣の中でぬくぬくと“生かされて”いる人間とロボットたち。そのラインからはじき出してくれるのがウォーリー。なるほど。
ウェブにはもちろん、ネットワークでのコミュニケーションばかりで、オフラインのコミュニケーションをしないアクシオム人、ネット漬けの人間をも重ねるあたり、考えさせられます。

舵としてのオートは永遠の周遊軌道を描きながら人類の運命をも握っています。人間を思いながらも矛盾した指令を守り続けるオートと艦長が和解の握手をすることが出来るのは、マニュアルに切り替えられ、機械になった瞬間と言うのが皮肉です。

アクシオム人だけでなく、地球上のウォーリーも同じ日々の繰り返し。そのウォーリーの無限ループを解き放っているのがイヴの存在という相互作用が、また見事。

イヴは洪水が終わったことをオリーブの葉を咥え箱船に戻ってくる「ノアの箱舟」の鳩のイメージを思わせます。鳩といえば平和の象徴として、同時に天使的要素を持たせるのにもバランスよい設定ですがイヴはレーザーキャノン兵器つき(笑)。いい意味で“いびつさ”を持ってくるのがスタントン監督的。
『ファインディング・ニモ』で、ニモの非対称の手を“幸福のヒレ”と呼んだ、トリッキーさを思い出させます。

彼女が前半機械的で後半になるとカワイく見えてくるというのが知人たち共通の感想ですが、人間的な動きは結構前半から行っているのが面白いです。イヴを降ろしにきた宇宙船が近くに居る間は、その目を気にするように必至に仕事をするポーズをとり、いなくなったことを確認すると楽しむかのように宙をダンスするように飛行し、楽しむ。
ゴキブリを愛おしんだり、ウォーリーの宝物を壊してごまかしたり、けっこう、お茶目です。

イヴが地球に下りスキャンするのがピザプラネットの宅配車・ギョーザ1978年型。宇宙船から降りてきたロボットだから一層符合する遊びなのでしょう。

そういえば、単なるカメオだと思っていた『モンスターズ・インク』のマイク。ウォーリーが眠る棚の後ろに写り込む彼は玩具ですが、これって当のマイクが愛するティディベア“リトル・マイキー”と一緒だと眠れることに端を発した出演ですよね。このシーンの深さは、寂しさを紛らわせるコレクションの棚の意味です。コレクション棚にはかつて正常の動作していたウォーリーの仲間たちが一緒に眠っていたはずの場所。そこに帰ってこなくなった仲間たちの存在を埋めるようにコレクションをため、それに囲まれて、癒される姿は……身につまされます。コレクターとして(ヲイ!)。

帰還命令の名前が、毎度のお遊び『A-113』というのも、ただのお遊びだと通り過ぎてはもったいない。
ピクサーに毎回登場する暗号のような番号。カーズではメーターのナンバープレートでした。
これはピクサー(とディズニー)スタッフの多くが席を共にしたカル・アーツ(ディズニー設立のカルフォルニアのアート大学)で、特に今の中心人物が多く集まった教室の番号。つまり、故郷。
オフィスがまるでキャンパスのようなつくりのピクサー。その根源には故郷の再現というコンセプトが見えるかのようです。
「A-113」、故郷へ帰る指令の名前にピッタリでしょう。


作品で重要なアイコンとして登場する靴に入った植物。人間の生活に必要な根源的なものを集約していると思うと、身震いしてしまいます。空気の循環を考えると動物と植物は切っても切れない共存の関係にある“緑”。
大地を踏みしめる意味を象徴する“靴”。
大地を踏みしめることは、単純に運動することではなく仕事をして能動的に“生きる”と言うこと。
だからこそキャプテンは「生き延びたいんじゃない、生きたいんだ。」と靴を手にして、その意味に気づかされる。(※テーマ的であって、脚本的には意識されていないけど。そもそも艦長は無知、無垢のキャラクター。)
エンドクレジットには大地と共に生きる人間の姿が活写される。絵画の歴史をなぞるように、数百年の歴史をかけて得るもの。

700年もの間、靴のかわりにキャタピラを履いて大地を踏みしめ続けたウォーリー。彼が、そのアイコンを手に入れたのは必然の偶然なのでしょう。

[2008/12/17※表記修正]