ドラえもんの未来開拓のために「新・開拓史」にモノ申す!<ネタバレ>2009年03月08日 03:56

クイック効果
気に入らない!
大変申し訳ないけれど、今年のドラえもん映画最新作「新・のび太の宇宙開拓史」は、大変残念な出来。これが最高傑作とも呼び声高い原作を元にしているかと思うと、ほんと勿体ない。

最大の欠点は“間がない”こと。緩急がないのを言い換えて、全面ハイ・テンポアニメーションと言えば聞こえはいいかもしれない。でも、この作品に関して言えばダメダメ。尺が足りなくて詰めているのは分かるけど、前の人がしゃべり終わるのと同時に間を空けずに会話する彼らは、“テンポが早い”を越えて、何も考えずにセリフをまくし立てられて発する役者にしか見えない。

それだけではない。フルオーケストラのサウンドトラックは重厚で広がりある良作だと思う。むしろ作品全体のテンポを緩和する役目でもずいぶん助かってる部分があるように感じる。でも、それでもカバーし切れていない。初めてロップルと出会った晩、別れを告げて余韻に浸る場面では、その余韻を表現した音楽がまるで最後、尺に押されるかのようにフェードアウトして切り上がる始末。いやさ、この部分だけでない。じっくり聴かそうとするメロディーは耳を傾けると、その終わりが足りない印象を受ける。

原作や旧作アニメを観た観客にも新たな感動を提供するために新しい要素を加え、新解釈を加えることには反対しない。でも、それは加えた上でも作品の質を落とさない上での話しだと思う。
旧アニメ版は(原作に追いついてしまった後半は別として、)忠実に原作をなぞる展開だが、ガルタイト工業がのび太たちをおびき寄せるために川に毒を流すシークエンスがバッサリ切られている。それでも大きく気にならないのはシーンの刈り込みが上手く機能していたからだと思う。

緩急のなさは動画面にも言えて、終始動きっぱなしは豪華な反面、印象に残らない。旧作では抑え目な枚数な分、突然枚数を使って走り出す津波に追われるシーンで、いつもとは違う重力を動きで表現できていたのに今回は地球でも元気で動き回りすぎて、差を印象付けるまでに至らなかった。むしろ、抑える部分がもっと必要だったのでは……。


新作の大きな追加要素にドラミの登場と新キャラクター・モリーナのドラマがある。これって上手く機能しているか? 自分にとってはサッパリだ。

開拓民を助けるために異次元宇宙に投げ出されてしまった父を思い、開拓民との距離を置くモリーナ。死んでいたと思っていた父は、実は生きていて、感動の再会を果たす!

……ん? デジャヴーが……。一昨年、母娘の再会を描いた「のび太の新魔界大冒険」の脚本は“真保裕一”。真保さん、そんなに引き出し少ないの? 1年おきに肉親との再会を描くシリーズになったりして……。
いやいや、真保さんの責任ではないかもしれない。自由な展開を許さない版元や複数人数での会議の決定かもしれない。

そもそも開拓に人生をささげ、命を落とした人として原作で描かれていたのはロップルの父であったはず。その人を描くことを差し置いて、思い入れの薄い新キャラクターのさらの父親を描こうなんて、回りくどいにもほどがある。思うに、ロップルの父親の開拓にまつわるエピソードを掘り下げようとして、もつれたのではないだろうか。プロはアマが思うより、ずっと考えているはずだ。

前歴として美夜子の母をオリジナルとして追加できたのに、なぜ、という気もするが“ロップルの父”がオリジナルではなくて、原作にも登場し、既に死んでいることが明言されている点がむしろ枷になったように見える。つまりF先生の原作で死んだとされるキャラクターを蘇生させる展開に版元OKがとれなかったのではあるまいか。それならば納得だ。“ロップルとまるで兄弟のように接しているモリーナ”というワン・クッションを置いて肉親扱いにしたかったと。
(この仮説が考えすぎなら脚本家としての真保さんの技量を疑う。ムック本「映画ドラえ本」で言及があるけど、それが対外向けでなく真実ならがっかりだ!)

まわりくどい設定に納得が出来たとして、出来は最善かと言えば、そこも賛同しかねる。
冒頭はスタートレックのような宇宙船で開拓移民をの様子を描き、ソレをのび太が夢で見る。

ヲイヲイ! 

いや、「宇宙は最後のフロンティア(=開拓)」とトレッキーじゃなくても分かるけどさ。そこじゃなくて、のび太は誰視点の夢を見てるの? ロップルとの友情を育む前提があるからこそ、非科学的な精神感応でロップルの夢を見るという導入部には納得ができるのに、時間も飛び越え、誰の視点かも分からない夢は“分かっちゃない”と言わざるを得ない。単に設定を見せるだけのご都合だ。
(しかも移民船にパオパオやダックスキリンら動物を乗せてる描写……。絶句します。あれはコーヤコーヤの野生生物。放牧用の牛サイならまだしも……。)

そもそもモリーナにまつわるドラマって薄い。裏切って、ゴメンナサイって、あんた……。
原作では同年輩のブブが嫉妬にかられて、大人の力に負け“子供VS大人”のドラマ性として、ハマってるものを。中途半端なお年頃のモリーナを設定したせいで、構造的にもアンバランスになっている。
初期の傑作たる「のび太の恐竜」「のび太の宇宙開拓史」は悪に勝つだけでなく、大人とのぶつかり合いがテーマとしてあるからこそ、子供の心に響いていた。少なくとも自分には。

よし、百歩譲ってモリーナの成長を描くことにシフトしているとして、彼女は町の人と和解したの? 父が見つかったから解決? あれ、自立をテーマにしていたキャラクターが娘の関係性に戻って、むしろ真逆の結論に……。
ギスギス人間関係のコーヤコーヤを捨てて、父と新しい星の開拓をしますってか……。アンタ、呆れたよ。星や人間関係をゲームのリセットボタンのように……。なんだ、この話!? 結局肉親の安否だけで涙を絞るのがテーマで開拓の精神なんかこれっぽっちも描いてない。

この上辺だけの開拓者を描くことに尺を費やし、肝心ののび太とロップルの友情を描くことに尺を使えず駆け足なら、モリーナなんかいらないよ。焦点が完全にずれてる。
いや、この映画の製作に携わった人たちは西部劇とか、開拓者が嫌いなのかもしれない。ステレオタイプな観音開きのバーの扉描写を除いて、西部劇エッセンスを排除し、土地にこだわらず、肉親ばかりを気にする娘を主軸に、何が言いたかったのだろう。少なくとも今回の映画で“西部劇”がモチーフなんて言って欲しくもない。

一部のファンには単行本を経たのび太とギラーミンの一騎打ちが観られたから、それだけで満足だと仰る御仁も居る。

ええええええ?
ゴメン、賛同しかねます。

基本的に原作熟読者は脳内補完でプロセスを見ているようですが、今回の映画でのび太はギラーミンに勝っていますか?
両者同時に撃ち、倒れ、のび太が先に起き上がりはするものの、間髪入れずにギラーミンが立ち上がり悪あがきを展開するクライマックスに、のび太が倒れた理由は描かれていましたか? ギラーミンが負けを認めていましたか? あれは相打ちかと思いきや、両者無傷のような変なシーンでしたよ。

更にオリジナルで追加されたクライマックス。
「はっはっは、もうコア破壊装置は止められないぞ!」
高笑いのギラーミン、どこの三流悪役ですか。「ヤッターマン」なら隣の劇場だよ。いや、もういいや。今回はギラーミンはギャグなんですよね?(たぶん違う)

クライマックスを原作と違う新しいものにしたい都合は分かりますが、カーゴでひっこぬいてワープって、あんたコアに届いたメカの先端は? 地殻はもう不安定で火山爆発してますが……。
アニメ的に着火装置である先端を抜いたからという言い訳は伝わりましたが、それ以前に星の中央にメカが掘り進む説明映像を見せてくれたじゃないですか……。ああ、もう駄目だ。このアニメ。自分のためにある作品じゃないよ。

原作(単行本ではオミット)の名称ゴズ、メス、ボーガントが今回の映画ではダウト、ウーノ、バカラ。この名前変更に意味を求めて、“マカロニ・ウエスタンへのオマージュ?”とか仮説をたてて考えましたが、たぶん深い意味は無さそう。むしろ原作を知らなかっただけではないかと思うと、ガカーリ度が増すので、そう思わないように必至です。

加えて、事情を誤解しているように見えるのがメカデザイン。渡辺歩さん作だそうですが、前作へのアンチテーゼ前提に見えて、ちょっと嫌味を感じるのは考えすぎでしょうか。ドラへの偏愛ある人という前知識が自分に色眼鏡をかけているかもしれません。旧アニメ版のメカデザインが大河原邦夫さんの手により、まるで原作漫画に登場するメカ類が藤子F先生のものではないと誤解しているように思えてならないのです。

知っての通り、「のび太の宇宙開拓史」は連載開始当初は映画化を謳っていません。薄々、読者も水面下に予定は感じていたものの、実際の映画制作決定は数ヶ月を経てから。
旧アニメ版では冒頭からブルトレイン(悪の宇宙船)がフレンドシップ号(ロップルくんの船)を追いかけていますが、原作の冒頭シーンでは飾り気の少ない悪役宇宙船とフレンドシップ号です。ブルトレインのデザイン完成後、原作まんがに逆輸入されるのは第4回冒頭から。本部からギラーミンを乗せてくる強敵メカという位置づけです。

原作フレンドシップ号は終始変更されることが無く、最終回まで至っています。大河原さんのデザインのフレンドシップは原作を尊重しつつ、可変ウィングやワープ時に伸びる変形ボディーなど、動きの面での追加が主になっています。(フロント部分を斜めにカットしたのは小さなアレンジでしょう。)

無機質なフレンドシップに比べ“こどもまんが映画“らしく装飾されたブルトレインはF原理主義者から嫌われる存在かもしれないですが、原作に逆輸入されるだけあってよく出来ています。
“カウボーイ(牛追い)”転じて“牛→ブル”とし、“駅馬車”などのオムニバスや鉄道をイメージした“トレイン”と合成され、当時人気だった“ブルートレイン”をもじった名前になるというお遊び感覚。
これを排除した新作が公開さえるのがブルートレインがなくなる今年というのも、何と言う因縁。

“こどもまんが映画”的装飾を嫌うなら今年のロップルの宇宙船のカタツムリ型は非難できないはず。それだけでなく今回の映画に登場する多くの宇宙船が動物モチーフになってるのだから、むしろそこは歓迎しているはず。なのに、なんでガルタイト工業のロケット類が帆船なのか……。舳先が口のようになっていたけど、何の動物かいまだ分からない。帆を貼った船って、開拓時代というより、コロンブスの大陸発見みたいで、自分にはずれてるように感じてしまった。SF的にもガルタイト鉱石を推進力にした文化の中で、“帆”を見せるのはズレズレ。むしろガルタイトがコアになったエンジンを見せてくれれば“これぞSF”的な掘り下げに感じたかもしれないのに。

いかんなぁ、一晩中文句言いそうなテンションだ。

これだけ非難しながらも、嫌いじゃないんですよ。ドラえもんが。「新・宇宙開拓史」が。

今年の映画で気に入った点をいくつか。

クレムの声。子役であるアヤカ・ウィルソンの起用に“有名人起用”的拒絶反応を見せ、演技力の問題を言う意見が上がってもおかしくないですが、自分は“大成功”と思っているキャスティングです。
旧作アニメおよび原作ではブブの嫉妬も手伝って、のび太とのロマンスが成立しそうな危うさがあるのですが、その方向のミスリードを完全に断ち切っています。あくまでも今回はドラえもんとチャミーだけなのだ。舌ったらずなアヤカ・ウィルソンの演技のおかげで、恋愛に発展しない年齢差を感じさせ、あくまでも“妹キャラ”に徹したドラマ作りになっていて安心して観ていられます。

幼さが強調された分、遊びを“教わる”ムードが、なんとも言えずイイ! のび太がお兄ちゃんになってる。

そしてコーヤコーヤの森で流れる歌「キミが笑う世界」(歌:アヤカ・ウィルソン)が名曲。歌詞がとても「宇宙開拓史」という作品を表していて傑作。CD化されないのが残念。

新生チャミー! by佐久間レイさんがすばらしい!
小動物らしい、息が上がったときに言う「ホッチョ(文字化できない……。)」が、すごくチャーミング。
旧作アニメの杉山佳寿子さんの「だわさ」とは違ったアプローチで比較できない新イメージ。キャラクターデザインの変化と共に、とてもステキなキャラクターに仕上がっていました。

「どうか、つながっていてクダサーイ!」と言いながらドアを蹴チャミー(クレムのガニマタでドアを蹴る姿もカワイイ。)は抱きしめたいくらいです。(→ビョーキ)

萌えっぽいロップルも原作の連載1回目を拾ったイメージで、髪の毛のボリューム含め、面白く仕上がっていた。


好きだし楽しめるからこそ複数回観たし、キャラクター商品にまで手を出すわけで……。もっとも原作が傑作だからこそこのレベルで楽しめている可能性も捨てきれないわけで、映画ドラえもんの未来に大いに不安になってる部分もあるわけです。取り越し苦労で終わること、願ってます。

来年以降、リニューアル後の詰め込み傾向が、悪い意味で受け継がれないといいのですが。

自分なら、今回の映画には3~4秒の風の音と荒野が必要だと思います。
オリジナル要素が必要なのはその先の話だと思うのです。

何はともあれ最新作はサービス過剰気味、詰め込まれた映画。劇場のスクリーンで観るべき作品であることには間違いがないのです。