「パクリ」指摘文化に辟易 ~やえもんvsトーマス ― 2009年10月26日 06:08
きかんしゃやえもんはトーマスのパクリですか?
実のところ、検索して自分で調べれば済みそうなのに、あやふやな意見を集める掲示板で解決しようとする人の気持ちが分からないのです。そんなに便利なシステムなのでしょうか。(すいません、自分には良さが分かりません。)
もっとも、覗いた掲示板での結論は比較的良い方で、原作絵本の発表年を比較して、客観的に終わっていました。
確かにデジタル的な数字だけ見れば「きかんしゃ やえもん」は1959年12月5日初版の阿川弘之(文)と岡部冬彦(絵)による絵本です。世間的に言う「きかんしゃトーマス」は1984年から英で放映のTV版を指しそうですが(日本では「ひらけ!ポンキッキ」内で1990年放映開始)、原作絵本「汽車のえほん」シリーズにはもっと長い歴史があります。
ウィルバート・オードリーの原作絵本は1945年に発表。(さらに付け加えるなら、トーマスは1946年発表の第二巻でデビュー。)ただし日本での出版は1973年に開始というタイムラグがある。
日本というローカルな環境を見れば「やえもん」が先輩だし、世界的な視野で考えれば「トーマス(汽車のえほん)」の方が先輩なのです。 この2者の絵本が出版される背景には日本で60年代後半から、蒸機全廃になる1975年ごろに沸き起こった“SLブーム”を無視することはできません。
「やえもん」は徐々に時代に押され立場が弱くなった発表当時が投影されているし、次々と現役引退するSLが実際にあった時代の作品。かたや「汽車のえほん」はオリジナルが1946年の出版だとしても、作者自身が子供に聞かせた古いイギリス鉄道の原風景。
作品が長期化するにつれ、時代の違うのりものたちが多数登場し個性を競い合う世界になっていますが、その背景には絶対的な違いがあります。
「汽車のえほん」シリーズは、運良くTV放映される以前に日本でも出版されファンを開拓することに成功しました。しかし、SLブームに当て込んだ出版であることは想像に難しくありません。
ことによれば現在だって出版されていないマイナー絵本になっていた可能性だってあるでしょう。何しろ、オリジナル絵本は続巻が途絶えて久しい状況。現在、日本では原作ではなく、わざわざTV版から起こした絵本しか続刊されなくなってしまっているのですから。
そんな環境まで含めて、両者を思うと人気のあるキャラクターとして現在まで生き残っていることにありがたさすら感じるのです。
愛着のない人間にとって単純に“顔のついたのりもの”として似て見えるのはしょうがありません。でも、顔のついた擬人化のりものキャラクターなんて2者に限らずごまんといますよ。
「パクリ」呼ばわりって、どうなの。
言うまでもなく「ぱくる」は盗むことの俗語。穏やかではありません。日本人は海外の技術を上手に真似し、独自に技術発展させたと評価されることも多くありますが、こと創作物に関してはどうも漫画・アニメの世界的な評価に酔ってしまったのか、気軽に他者を盗っ人呼ばわりするようになってしまいました。技術革新のためにも他者の良いところは真似て、独自のよさを出していくのはフィクションの世界でも決してとがめられるものではありません。仮に日本が鎖国したまま現在になったとして、この漫画・アニメ文化の隆盛はありえなかったでしょう。(ちょっと飛躍しすぎか。)
感情論として、愛した作品の何かに似ている別の作品を見たら影響の関係を知りたくなったり、気分を害するケースもあるでしょう。でも、最低限“盗っ人”だと声高に叫ぶなら、その声には責任があってしかるべきだと思うのです。ネットだから、ハンドルネームだからと責任から逃げるのではなく言ったなりに勉強をして欲しいと自分は考えます。
それに盗作認定するには、被害をこうむると著作権者が感じているか、実際にマイナスなのかが問題です。お店で万引きを見たとして客同士で騒いでもしょうがない。現状のネットで見る「パクリ論争」って、結局のところ両者の作品のファンが傷つけあってるだけで、何も生んでないように感じてしまう。
これって、作り手の端くれとしての感情なんですかね。仮に単なるファン(受け手)だとしても、自分はきっと同じように考えそうなのですが。そんな“環境”の“もしも”を考えつつ、ガッカリしてしまっています。
きかんしゃやえもんはトーマスのパクリですか?
否! 生んだ環境がまるで違う! テーマが違う! 国土性が、まるで違う! ファンにとっては表層のみで語って欲しくないよ。
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