作り手と言う”神様” ― 2006年01月19日 21:05

もちろん映画監督もそういう仕事のひとつ。
当初自分は『ニュー・シネマ・パラダイス』を神様の物語として読み解くことをひどく嫌った。この映画に限らず日本人の宗教観はあらためて神様を語ることにすごく抵抗を感じる部分がある。
でも改めて考えてみると『ニュー・シネマ・パラダイス』のように教会や教会が経営する映画館を舞台にする映画で”神”のモチーフを捨てるなんてありえない話です。九九の答えを教えるクリスマスツリーの絵自体が宗教性を指してることに気づくと神様話なんて嫌いだと言いながらどんどん惹きこまれる、そしてどう考えてもそうとしか読めなくなってくるのだから不思議。免疫のないジャンルに侵されると進行も早い。もはやどっぷりとヤラれた感じです。
この次の映画『みんな元気』でこそキリスト教会の推薦をえる作品を撮るG・トルナトーレ監督ですが、この映画は決してキリスト教の神話とも思えません。何しろ映画に登場するアデルフィオ神父は他のキャラクターに比べても人間的な描かれ方、彼いわくアルフレードの考えることは「異端の考えは捨てろ」と言われるものです。そして「永遠の業火に焼かれるぞ」と言うほどなのです。
戦争から帰ってきたトトを迎え入れるアルフレードは「ここは熱い、海へ行こう」と言うシーンがありますが、まるでその台詞はすでに業火の熱さにあえいでいるようにも見えてくるから深いものがあります。
アルフレードが自分の恋愛を壊していることを知ったトトはエレナに言います。「君にも魔法をかけたのか!」
魔法の言葉にファンタジックなものを感じるかもしれませんが、”御業”と意訳してしまうほうが筋が通りやすくなるかもしれません。
トトが映画監督と言う”神様”に成れることを早くから見通したアルフレード。 彼自身は「自分がみんなを笑わせてる気がする」と自らの仕事の範囲を自覚していた。決して本当の神ではないアルフレード。人間である彼が神のようなエゴで編集したのはキスシーンのジャンクフィルムだけではない。かけがえのないトトの人生そのものが彼の作品だったのかもしれない。
コメント
_ あんぐれーず ― 2006年11月10日 22:00
_ しらいしろう ― 2006年11月11日 06:19
初めましてようこそ。新旧関わらず、お気兼ねなくどうぞ、コメントありがとうございます。
そのキーワードで検索すると、確かにこのブログに到着しますね。他に話題にしている人は殆ど居ないようで、納得です。(ご指摘がどこの掲示板か、どのHNか、あえて確かめません。同一人物か否かはご推察にお任せします。)
G・トルナトーレ監督の生活圏を考えるとキリスト教は切っても切れないテーマなのでしょうね。『マレーナ』のDVDの特典についていたドキュメンタリーなんかも土地のムードを伝えてくれる良い資料でお勧めです。現地の宗教的な飾り付けの職人さんとかが出てくる……見直さないとうろ覚えですが。
残念ながら自分はクリスチャンではないですし、キリスト教に詳しいわけでもありません。全てが映画を原動力に調べたり友人のクリスチャンに話を聞いた程度なので、本当に分かっているかは自信がありません。
ま、あくまでも個人見解と言うことでお願いします。
タンスの中のマリア様はハンガー代わりと言うギャグだと自分は思っているのですが、ご指摘のシーンは”何を意図しているのか?”とよく話題に上がりますね。
・タンスの中の何かに上着をかけるトト
↓
・風が吹き、扉が開くと、その何かはマリア様だった
と言う流れですが、答えを見せる画面が割りとじっくりなので、マリア様である意味まで踏み込んで考えて欲しいようにも見えます。
自分はどちらかと言うとトトと言う少年が、教会で手伝いをしているのに、神を敬うのではなく”そこにある”くらいの気構えでいるキャラクター性を伝えるギミックだと思っていました。
トトのお母さんも”マリア”ですし、ストーリー全体に対して意味はあると思いますが、明確にそれを即答、文章化する力は自分にはありません。じっくり考えてみたいと思います。
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私はクリスチャンでも何でもないですが、キリスト教の知識があるのとないのでは映画の解釈も違ってくるだろうとは思います。一番インパクトがあったのは冒頭のトトのコートのかかったマリア像の扉が開くところですね。いかにも意味ありげなシーンだと思いました。