『映画の中の嘘』が許せない人々に ― 2006年01月22日 16:28
”映画には嘘があることは理解しているが”といいつつも
”感動すら嘘になってしまうのでは”と書いている。
興味のない人ならば意識することは少ないかもしれないけれど、少しでもフィルムや映画と言うものに憧れを抱く人種なら劇場に映写機が2台用意されるのは常識。
映画1本を1本にまとめてしまうと巻き戻しするだけでも相当な時間ロス。コンパクトに前半と後半を分け、切り替え上映をすることにより時間やメンテナンスをしやすくしてある。それらを無視し、1台の映写機で上映する『ニュー・シネマ・パラダイス』はリアリティに欠けるということらしい。
投稿は波紋を広げ、同誌7月下旬号には同じキネ旬ロビイには地方公務員・遠藤さんの反応が掲載されています。
”そんな基本的なミスをしていたなんて若い証拠ですね、でもラストの感動はミスがあっても忘れることが出来ません。”
批判のズレもさることながら援護派の恋のような盲目ぶりもなかなか味があります。
話はこれだけに終わりません。カートゥーンの知識の大御所で自分にとっては尊敬の人である森卓也さんが同号に『映画の中の嘘「ニュー・シネマ・パラダイス」の映写室の描き方について』と題し3ページにも渡る検証記事を執筆。
1台で映画を上映できる仮説を上げながら結局のところ不可能と言う話を多様な情報と共に提供しています。
”映写機問題”はこの後もアンチ&ファンの間では定番化し、ネットでの論争ではたびたび御蔵出しされるものです。
そもそもドキュメンタリー出身のトルナトーレ監督が”フィクション=嘘”を描くようになったとたん、”嘘だ!”と突き上げるのも不思議な話です。
映画の大半は追想シーンです。個人の脳裏によぎった歪んだ映像に記憶違いがあって当たり前。単なるディテール矛盾の指摘は殆ど意味がありません。嘘の機能性を論じるなら別ですが。
そして森さんはこの映画を斬り捨てる。
”少年と監督は同一人物に相違ない。本当に映画が好きなのではなく、それほど映画を好きな自分が大好きなだけだ、という意味において。”
そして同時期のいわゆる感動作品のヒットに疑問を投げかけつつ、こう締めくくっている。
”『ニュー・シネマ・パラダイス』のナルシシズムは、しかしひとごとではない。 コマをほうり投げるサルバトーレ少年と、コマを、手内職のように、ハーフサイズのスライドマウントに納めるコレクター(つまり私)との間は、実は五十歩百歩なのだ。
ナルシストは無自覚のエゴイスト。自覚なきエゴほど始末に終えぬものはないのである。”
これら批判記事すらファイリングする、コレクター・パラドックスな自分。
自分はこの腹立たしい記事をコレクターの義務感だけで保管しているわけではありません。少なくとも批判と言う立脚点は自分にはない新しい視点であるわけで、感情論は論外ですが論理的批判は自分にとっては新しい視点を持つ助けになりました。
トルナトーレ監督は自身の作品を数年休んで古いイタリア映画の保存活動に従事するなど、ファンは”お見事”と思ってしまうのですが、森さんにとってはナルシストのスタンドプレーとして片付けられてしまいそうです。
自分にとっては『刑事コロンボ/意識の下の映像』(1973)以来、パンチマークが楽しみでしょうがないアホ子供だったので、フィルムの切り替えはガキでも知ってると思っていました。まぁ、自分が通常のガキだったとは思いませんが少なくともこれらの流れが本気でやり取りされる映画雑誌が奇妙でしょうがありませんでした。だって曲がりなりにも一応キネ旬ですよ。
映写技師の話を作ろうとしたときに”ミスで映写機をひとつに描いてしまった”と言う仮説が成り立つ”作り手”の見くびりぶりは閉口でした。”なぜそう描いたのだろう”(=嘘の機能性)と、どうしてならないのでしょう。
森さんの文章の中では『ニュー・シネマ・パラダイス』の上映記念で名古屋のゴールド劇場で企画された映写室ツアーを紹介しています。希望者数人を映写室に案内し実際の作業を体験できるもので、そこでも”映写機がなぜ1台なのか”と話題に上がったらしい。でも”狭いからだろう”と笑い話で終わってしまったとある。
笑い事じゃない。
この映画は用意周到に精密機械のようにテーマが絡み合っている。 別エントリーでも既に書いているがパロッキアーレ(教会経営)時代と資本主義になってから”足りない食物をどう群集にいきわたらせるか”の違いが焦点になっている。
反射を利用して映画そのものを増やした「パンと魚の奇跡」に対してぶった切って増やした資本主義時代の対比を明らかにするためにも映画はひとつでないと焦点がぼけてしまうのです。最初から2つのものを2つにしてもそれは奇跡にはなりえません。
そして”おなかを空かした民衆の為”であるのも重要なポイントです。映画はマニアの為だけに存在しているのではありません。もっと敷居の低いものです。
劇映画に転進したトルナトーレ監督が現実をどうディフォルメしたか。映画に詳しくない人でもピンとくるディフォルメを加え、古き名画を知らなくても赤茶けたり、青くなったりするプリントで違う映画になったことを理解させ、どんなに回転の悪い人でも分かるように2館で上映するカラクリを見せています。まるでボッチャに九九を教えるシーンのように親切に。(ボッチャには伝わってないけど。)
否定派に対し援護側の反論ももはや定型化されています。”『ニュー・シネマ・パラダイス』は映画愛を描いたものではない”、大体流れは決まっています。
そんな論争をしなくても公開当時に簡潔に監督の発言があります。「人生の方が映画よりも大切だと心から思っている。」(パンフレットより)と。
どこかで見た”映画のバラバラ死体を見せられるようなラストに嘔吐する”と言う意見は上手いこと言うもんだと思わされる表現でした。
分かり易さであるディフォルメなはずなのにリアリティを求める自覚的映画ファンや評論家さんたち。矛盾点を直感的に分かっているのです。テーマ自体がスクリーンの外のリアルな世界だと。
この映画は多くの人に”深い映画愛を描いてる”と勘違いさせていますが、映画館に閉じこもるヒッキーには聞こえるはずです”映画ではなく、外に出て厳しい現実を愛せ”と言う失礼でお節介なテーマを。
映画ファンなら映画にそんなこと言われたくはないでしょう。映画に近ければ近い人ほど拒絶するのは当たり前。そんなネジクレタ映画が『ニュー・シネマ・パラダイス』だと自分は思うのです。
劇映画で上手く嘘をついてほしい、夢を見るために。万人がそう願っています。
そんな世界の中心で、 嘘だと叫んだ無粋な人々に感謝します。
でも、映画で現実に向かうことを説く自己矛盾のようなこの作品はやっぱり、だからこそ名作だと思っています。
おかげで僕も現実を愛せそうです。ただし、この映画も好きなままで。
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